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岡山地方裁判所 昭和43年(ワ)627号 判決 1977年3月22日

昭和四三年(ワ)第一六八号事件原告

同和鉱業健康保険組合

昭和四三年(ワ)第六二七号事件原告

戸川恵美子

ほか二名

昭和四三年(ワ)第一六八号・第六二七号事件被告

山崎照正

ほか一名

昭和四三年(ワ)第六二七号事件被告

山崎枝

主文

一  被告山崎照正、同山崎育雄は各自、原告同和鉱業健康保険組合に対して金一、三一四、九二二円およびこれに対する昭和四三年三月二四日から完済に至るまで年五分の割合による金員の支払いをせよ。

二  原告同和鉱業健康保険組合のその余の請求をいずれも棄却する。

三  被告山崎照正、同山崎育雄、同山崎枝は各自、原告戸川恵美子、同戸川一己、同戸川孝二に対して各金一、六九八、八六八円およびこれに対する昭和四二年八月六日から完済に至るまで年五分の割合による金員の支払いをせよ。

四  原告戸川恵美子、同戸川一己、同戸川孝二のその余の請求をいずれも棄却する。

五  訴訟費用は、原告同和鉱業健康保険組合について生じた分はこれを五分し、その一を同原告の負担、その余を被告山崎照正、同山崎育雄の連帯負担、原告戸川恵美子、同戸川一己、同戸川孝二について生じた分はこれを二分し、その一を同原告らの負担、その余を被告山崎照正、同山崎育雄、同山崎枝の連帯負担、被告山崎照正、同山崎育雄について生じた分はこれを一〇分し、その六を同被告らの負担、その余を原告同和鉱業健康保険組合、同戸川恵美子、同戸川一己、同戸川孝二の連帯負担、被告山崎枝について生じた分はこれを二分し、その一を同被告の負担、その余を原告戸川恵美子、同戸川一己、同戸川孝二の連帯負担とする。

六  この判決は、原告同和鉱業健康保険組合が被告山崎照正、同山崎育雄両名のために金六〇〇、〇〇〇円の担保を供したときは、主文第一項に限り、原告戸川恵美子、同戸川一己、同戸川孝二がそれぞれ被告山崎照正、同山崎育雄、同山崎枝三名のために金五〇〇、〇〇〇円の担保を供したときは、担保を供した原告について主文第三項に限り、仮に執行することができる。

事実

第一当事者が求めた裁判

一  昭和四三年(ワ)第一六八号事件

(一)  原告

「被告らは各自原告に対して金一、六七四、〇二六円およびこれに対する昭和四三年三月二四日から完済に至るまで年五分の割合による金員の支払いをせよ。訴訟費用は被告らの負担とする。」との判決および仮執行の宣言。

(二)  被告ら

「原告の請求をいずれも棄却する。訴訟費用は原告の負担とする。」との判決。

二  昭和四三年(ワ)第六二七号事件

(一)  原告ら

「被告らは連帯して各原告に対して各金三、〇〇〇、〇〇〇円およびこれに対する昭和四一年一一月五日から完済に至るまで年五分の割合による金員の支払いをせよ。訴訟費用は被告らの負担とする。」との判決および仮執行の宣言。

(二)  被告ら

「原告らの請求をいずれも棄却する。訴訟費用は原告らの負担とする。」との判決。

第二当事者の主張

一  昭和四三年(ワ)第一六八号事件原告の請求原因

(一)  昭和四一年一一月五日午後六時二〇分項、被告山崎照正(以下「被告照正」という。)が運転し岡山県和気郡和気町大字益原地内を通じている県道津山備前線(以下「本件県道」という。)を時速約四〇キロメートル位の速度で南進していた被告山崎育雄(以下「被告育雄」という。)所有の原動機付自転車(登録番号岡山市一〇〇九三号、以下「被告車」という。)が、本件県道と本件県道から北西方に分れて原部落方面に通じている町道(以下「本件町道」という。)との交差点の東側(被告車の進行方向左側)側端に、長さ約一〇メートルの竹を載せて置いてあつた農用車(いわゆる大八車、以下「本件大八車」という。)に激突し(以下「本件衝突事故」という。)、この衝撃によつて、本件大八車の積荷の竹を附近の田圃へ運搬しようとしていた戸川久二(当時満四六歳、以下「久二」という。)を本件県道東側の側溝内に転落させて、久二に右第五ないし第一一肋骨骨折等の傷害を与え、右傷害に因つて久二を昭和四二年八月六日に死亡するに至らせた。

(二)  本件衝突事故は、被告照正が原動機付自転車の運転免許を受けておらず、運転技術が未熟であつたので、道路で被告車を運転してはならないにかかわらずこれを運転し、しかも本件県道から本件町道への入口を探していて脇見をし、前方注視を怠つた重大な過失に因つて発生したものであるから、被告照正は不法行為者として、久二が本件衝突事故に因つて被つた損害を賠償すべき義務を負つた。

(三)  本件衝突事故当時、被告車は被告育雄が所有していたものであり、また、被告育雄は被告照正の父であつて、本件衝突事故当時未成年者であつた被告照正(昭和二五年二月一一日生)を監督すべき者であつたにもかかわらず、被告車の保管、被告照正に対する監督上の注意を怠つて、被告照正に被告車の無免許運転をなさせるに至つたものであるから、被告育雄は本件衝突事故に因つて久二が被つた損害を賠償すべき義務を負つた。

(四)  原告(以下「原告組合」という。)は、久二が原告組合の被保険者であつたので、本件衝突事故による久二の負傷について、健康保険法による保険給付として久二に対して医療費一、四五八、〇二六円、傷害手当金二一六、〇〇〇円、合計一、六七四、〇二六円を支給したので、健康保険法第六七条により右の支給額の限度で、久二が被告らに対して取得した損害賠償債権を原告組合が取得した。

(五)  よつて、原告組合は被告ら各自に対して一、六七四、〇二六円およびこれに対する本件訴状が被告らに送達された翌日である昭和四三年二月二四日から完済に至るまでの、民事法定利率である年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。

二  昭和四三年(ワ)第六二七号事件原告らの請求原因

(一)  昭和四一年一一月五日午後六時二〇分項、被告照正が運転して本件県道を南進していた被告車が、岡山県和気郡和気町大字益原地内において本件大八車に激突し(本件衝突事故を起し)、本件大八車の積荷の竹を下ろそうとしていた久二は、被告車または本件大八車に跳ね飛ばされて、本件県道東側沿いの側溝の中に転落した。

(二)  久二は右事故によつて、右上肺葉刺創、胸廓内出血、右肝破裂、右肩胛骨骨折、頸部挫割創等の傷害を受け、事故当日から昭和四二年三月二八日までの一四四日間和気町大字和気所在の北川病院に入院、治療を受け、その後右病院に通院していたが、経過がはかばかしくなかつたので、同年七月三一日、兵庫県赤穂市塩屋所在の古城病院に入院したが、同年八月六日、腎機能不全、右横隔膜下膿傷に因つて死亡した。

(三)  本件衝突事故は被告車を運転していた被告照正の前方注視を怠つた過失に因つて発生したものであるから、被告照正は本件衝突事故による久二の受傷、死亡に因つて生じた損害を賠償すべき義務を負つた。

(四)1  被告育雄は被告車を所有し、これを被告照正に貸与して運転させていたものであるから、被告車の運行供用者として、本件衝突事故によつて久二が受傷、死亡したことに因る損害を賠償すべき義務を負つた。

2  被告育雄、被告山崎枝(以下「被告枝」という)は被告照正の父母であり、本件衝突事故当時被告照正は未成年者であつたから、被告育雄、被告枝は被告照正の親権者として、同被告を監護教育すべき責任があつた。しかるに、被告照正が原動機付自転車の運転免許を受けておらず、しかも視力が〇・二という極度の近視であるにかかわらず、同被告に眼鏡をかけずに被告車を運転させていたことは、単に親権者としての監督義務を怠つたというよりは、むしろ本件衝突事故の発生にすすんで協力したといつても過言ではないから、被告育雄、被告枝は被告照正とともに共同不法行為者として、本件衝突事故に因つて生じた損害を賠償すべき義務を負つた。

3  被告育雄、被告枝は原告らに対して、本件衝突事故に因る原告らの損害を賠償することを約束した。

(五)1  久二の逸失利益

(1) 久二は昭和二一年九月二一日から同和鉱業株式会社片上鉄道事業所に勤務し、本件衝突事故当時、保線員として平均月額四五、五八五円、年額五四七、〇二〇円の給料収入を得ていた。

(2) 久二は妻である原告戸川恵美子(以下「原告恵美子」という)とともに農業を営んでいた。この農業は形式上は久二の母玉代名義で営まれていたものであるが、実際には、玉代は老齢で農業に従事できなくなつていたので、久二と原告恵美子が営んでいたものである。昭和四一年度の右農業による所得は一四一、〇〇〇円であつたから、その二分の一である七〇、五〇〇円が久二の所得であつた。

(3) 右(1)、(2)の久二の所得の合計は年額六一七、五二〇円となるが、このうち久二の必要生活費月額一五、〇〇〇円、年額一八〇、〇〇〇円を差引いた四三七、五二〇円が純益となる。久二は死亡当時満四七歳であつたから残存就労可能年数を一六年として、ホフマン式計算法により年五分の割合による中間利息を控除した久二の逸失利益の死亡時の現価は五、〇四七、二三〇円となる。

2  久二本人の慰藉料

久二は本件衝突事故によつて重傷を負い、遂に死亡するに至つたもので、これについての慰藉料としては少なくとも一、五〇〇、〇〇〇円が相当である。

3  久二の死亡により、妻である原告恵美子、子である原告戸川一己、同戸川孝二(以下原告一己、原告孝二」という。)の三名が、法定相続分にしたがつて久二を共同相続した。したがつて右1、2の合計六、五四七、二三〇円の久二の損害賠償債権も原告恵美子、原告一己、原告孝二の三名が各三分の一である二、一八二、四一〇円宛相続した。

4  各原告固有の慰藉料

久二の死亡についての原告恵美子、原告一己、原告孝二の固有の慰藉料としては、少なくとも各一、五〇〇、〇〇〇円が相当である。

(六)  よつて、原告らは被告らに対して、連帯して各原告に対して右(五)の3、4の合計の内金として三、〇〇〇、〇〇〇円宛およびこれに対する本件衝突事故当日である昭和四一年一一月五日から完済までの民事法定利率である年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。

三  昭和四三年(ワ)第一六八号事件の請求原因に対する被告らの答弁

(一)  請求原因(一)の事実のうち、原告組合主張の日時、場所において、被告照正が運転して本件県道を南進していた被告車が、本件大八車に載せられていた長さ約一〇メートルの竹にひつかかつたこと、久二が本件県道東側の側溝に落ちたこと、久二が負傷したこと、久二が原告主張の日に死亡したことは、いずれも認めるが、被告車が被告育雄の所有であつたこと、被告車が時速約四〇キロメートルの速度で本件大八車に激突したこと、被告車と本件大八車の衝突(本件衝突事故)の衝撃によつて久二を本件県道東側の側溝に転落させたこと、久二が本件衝突事故に基く負傷に因つて死亡したということは、いずれも否認する。被告車は、被告育雄の妻である山崎枝の兄宮本宜明から枝が貫い受けて、同人が所有していたものである。

(二)  同(二)の事実のうち、被告照正が原動機付自転車の運転免許を受けていなかつたことは認めるが、被告照正に脇見をしていて前方注視を怠つた過失があるということは否認する。

(三)  同(三)の事実のうち、被告育雄が被告照正の父であること、昭和四一年一一月五日当時、被告照正が未成年者であつたこと(被告照正の生年月日が原告主張のとおりであること)は認めるが、その余の事実は否認する。

(四)  同(四)の事実のうち、久二が原告組合の被保険者であつたことは認めるが、原告組合の久二に対する保険給付額は知らない。

四  昭和四三年(ワ)第六二七号事件の請求原因に対する被告らの答弁

(一)  請求原因(一)の事実のうち、原告ら主張の日時、場所において、被告照正が運転して本件県道を南進していた被告車が、本件大八車に載せられていた竹にひつかかつたこと、久二が本件県道東側沿いの川(側溝)内に落ちたことは、いずれも認めるが、その余の事実は否認する。

(二)  同(二)の事実のうち、久二が負傷し、北川病院に入、通院して治療を受けたこと、久二が原告ら主張の日に古城病院で死亡したことは認めるが、その余の事実は知らない。

(三)  同(三)の事実は否認する。

(四)1  同(四)の1の事実は否認する。

2  同(四)の2の事実のうち、被告育雄、被告枝が被告照正の父母であり、昭和四一年一一月五日当時、被告照正が未成年者であつたこと、被告照正が原動機付自転車の運転免許を受けていなかつたことは、いずれも認めるが、その余の事実は否認する。

3  同(四)の3の事実は否認する。

(五)1  同(五)の1の(1)の事実のうち、久二が同和鉱業株式会社片上鉄道事業所に勤務していたことは認めるが、その余の事実は知らない。同(五)の1の(2)、(3)の事実はいずれも知らない。

2  同(五)の2の相当慰藉料額は争う。

3  同(五)の3のうち、久二の相続関係は知らない。

4  同(五)の4の相当慰藉料額は争う。

五  両事件の請求原因に対する被告らの主張

(一)  被告照正が運転していた被告車は本件大八車に載せられていた竹にひつかかつたけれども、本件大八車、久二のいずれにも衝突していないのであり、久二が本件県道東側の側溝に転落したのは、被告照正運転の被告車が本件大八車に載せられていた竹にひつかかるより前に、久二自身が過つて転落したか、または足踏式自転車に衝突されて転落したものである。

(二)  仮に被告照正運転の被告車が本件大八車に載せられていた竹にひつかかつたことによつて久二が側溝に転落負傷したものであるとしても、久二が死亡したのは右負傷に因るものではなく、医師古城猛彦が昭和四二年八月三日、および同月五日に久二に対して手術を行つたこと、または右の手術上の過失に因るものである。即ち、被告照正が起した事故と久二の死亡との間には、相当因果関係がないから、被告らは久二が死亡したことに因る損害については、賠償義務を負わない。

六  両事件についての被告らの抗弁

(一)  久二は本件大八車に長さ約一〇メートルの竹を載せながら、灯火を何もつけないで、真暗な本件県道上に置いていたのであるから、被告照正が被告車を右の竹にひつかけて事故を起したことについては、久二にも重大な過失があつたものであり、右の久二の過失が重いことと当時被告照正が一六歳の少年であつたことからすれば、被告照正の損害賠償債務は全額免除されるのが相当である。

(二)  昭和四一年当時、被告育雄の勤務と被告照正の通学の各時間の関係から、被告育雄と被告照正が一緒に家で過すのは、殆んど就寝時間だけという状態に在つたので、被告育雄は被告照正の監督、教育をすべて当時被告照正が在学していた瀬戸高等学校に委ねていたものであり、家庭における被告照正に対する監督、教育は母である被告枝が専ら行つていたのであるから、被告照正の不法行為に因る損害について、被告育雄は賠償責任を負わない。

(三)  被告枝は被告照正に被告車を運転させないようにするため、被告車のエンジンキーを冷蔵庫の中に匿しておいたにかかわらず、被告照正が昭和四一年一一月五日当日これを盗み出して、被告車を運転したものであるから、被告枝にとつて、同夜被告照正が被告車を運転したことは、不可抗力に因るものというべきであるから、被告照正の被告車運転に基く不法行為に因る損害について、被告枝は監督者としての損害賠償責任を負わない。

第三証拠関係〔略〕

理由

一  昭和四一年一一月五日午後六時二〇分頃、被告照正が運転して、岡山県和気郡和気町大字益原地内を通じている本件県道を南進していた被告車が、本件県道東側側端に長さ約一〇メートルの竹を載せて置いてあつた本件大八車の、少なくとも載せてあつた竹にひつかかつたこと(以下右の被告車と本件大八車との間に生じた事故を「本件事故」という。)、久二が本件県道の東側の側溝内に転落したこと、久二が負傷したこと、被告照正が昭和四一年一一月五日当時、原動機付自転車の運転免許を受けていなかつたことは、いずれも全当事者間に争いがない。

二  原告らの、被告車が本件大八車に衝突したこと、もしくは被告車が久二に衝突したことに因つて久二が本件県道東側の側溝に転落し負傷したものである、という主張について判断する。

(一)  いずれも真正に作成されたことに争いのない甲ロ第一〇ないし第一二号証、同第一八号証、同第二〇ないし第二二号証、同第二四、二五号証、同第二七号証(以上の甲ロ号各証と同一物が甲イ号証としても提出されている(但し甲ロ第二〇号証のうちの写真六枚を除く。)。甲イ号証として提出されている物と同一物が甲ロ号証としても提出されている場合においては、以下においても便宜上甲ロ号証のみを掲記する。)、同第四四号証、同第四六号証、同第四八号証、同第五〇号証、同第五七号証、その記載の形式、内容から真正に作成されたと認められる甲ロ第六四号証、および証人花房唯雄(第一、二回)、同山上鉄生の各証言、被告照正本人尋問、検証の各結果を合わせて考えると、次の事実が認められる。

1  本件県道は本件事故発生地点付近においては、南の備前市方面から北の津山市方面に向つてほぼ南北の方向に数一〇〇メートルの区間にわたつて直線状に通じていて、幅員五メートルで歩車道の区別がなく、両側端の幅員各約八〇センチメートルの部分は舗装されていないが、右の部分以外の部分はアスフアルト舗装されている。本件県道の西側にある和気町原部落方面に通じている幅員三メートルの、本件事故当時には非舗装の道路(以下「本件町道」という。)が、別紙図面に表示のように本件県道と交差している。本件県道の本件事故発生地点付近の東側には、本件県道に沿つて幅員約一・六メートルの側溝(以下「本件側溝」という。)がある。本件県道の東側の水田の中を東方へ直線状に通じている幅員約一・七メートルの農道(以下「本件農道」という。)が別紙図面に表示のように本件県道と交差しており、その本件側溝を跨ぐ部分には厚さ約四五センチメートルのコンクリート製の橋が、本件県道側が水田側より約二〇センチメートル位高い傾斜をして架けられ、橋の上面は南、北の両側が厚く、中央部が薄く土で覆われている(以下右の橋を「本件土橋」という。)。本件事故当時、本件県道と本件町道、本件農道の交差点付近には道路上に対する夜間の照明設備は全くなく、本件県道の両側は水田で、付近には人家もないので、道路上を明るくするような灯火も全くなかつた。

2  本件側溝の溝底から本件県道の路面までの高さは約一・四メートルで、西側(本件県道側)の側面は、約八〇度位の斜面となつていて、溝底から本件県道の路肩の下方約二〇センチメートル位の高さまでの間は、切石を積んだ石崖となつており、その上方約二〇センチメートル位の部分は土で、雑草が生えている。本件側溝の東側(水田側)の側面は、溝底から高さ約三五ないし四〇センチメートルまで切石が積まれた上に更に高さ約二〇センチメートル位、幅約三〇センチメートル位に土が積まれて畦となつていて雑草が生えている。右の畦の東側に沿つて水田との間に幅約一七センチメートルで上面の高さが右の畦よりも稍高い状態でコンクリート製の堰が造られている。但し、本件土橋の東南端の直下から南側へ約四〇センチメートルの処からさらに南側へ約四〇センチメートルの処までの南北の長さ約四〇センチメートルの部分は、東側の水田に対する給水口となつていて、右の本件側溝の東側側面の石積、畦、コンクリート製堰が中断されている。本件側溝の溝底は土砂であり、本件事故当時は水も全くなく、ほぼ乾燥していた。

3  本件大八車は木製で、全長三メートル、車幅九六センチメートルで、車輪は外径約六五センチメートルでゴム製タイヤが装着されており、荷台部分は長さ一・八メートル、幅は前部で七八センチメートル、後部で六七センチメートルで、本件事故の際には荷台両側の中央部分に、板切れ二枚の両端に棒を釘付けした長さ約七二センチメートルの木枠(側板)が装着され、右の木枠の両端の棒の上端の地上高は約七八センチメートルであつた。

4  本件事故当日午後六時一〇分前頃、久二は本件事故現場の北方約四〇〇メートル位の片上鉄道益原駅前付近から、翌日刈つた稲を架ける稲架(はさ)をつくる資材である長さ約二メートル位、直径四、五センチメートル位の木の棒(稲足)六本位を縄で束ねたもの、および長さが一〇メートル内外、根元の部分の直径が約七、八センチメートル位、先端の部分の直径が約三、四センチメートル位の青竹の竹竿一二本を、先端を車体の前方(手木の方)、根元を車体の後方として荷台上に積んだ本件大八車を曳いて、本件県道を南進し、本件大八車の左側の車輪がほぼ本件県道の東側側端の舗装部分と非舗装部分の境界線上にあり、かつ本件土橋の西側側端(本件県道に接する部分)の中央部の西方に位置し、車体が本件県道の方向とほぼ平行になり、車体前部(手木の方で、南側となつている方)が上り、車体後部(荷台の方で北側となつている方)が下り、荷台に載せていた竹竿の根元の部分が荷台の後端からさらに約三メートル位後方(北側)の本件県道路面に接地し、竹竿の先端部の方が上へ上つている状態として、本件大八車を止めて置いた。久二は右のようにして止めて置いた本件大八車から、載せてあつた竹竿を一本ずつ下ろして、これを本件県道の東方三〇メートル位の処にある同人方の田圃まで、本件農道を通つて運んでいたが、その方法は、本件大八車の左側側面(東側)の方から荷台上の竹竿を持上げ、これを南北の方向に向けたままの状態(本件県道の方向と平行な状態)として両手で抱え、本件土橋、本件農道を後ずさりで数メートル東進して、竹竿を東西の方向(本件農道の方向)に旋回させても、その端が本件県道上に出ないような処に至つてから、竹竿を東西の方向に旋回させるとともに身体の向きを変え、後ずさりから前進に変えて運ぶ、という方法によつて行い、竹竿八本を運び終つた。久二は右のような作業をするについて、灯火を何も携帯しておらず、また本件県道上に止めて置いた本件大八車にも灯火は何も付けていなかつた。

5  被告照正は被告車を運転して本件県道の東側側端から約一メートル位中央寄りの部分を南進していて本件事故を起し、被告車は右斜め前方に進み、別紙図面表示の転地点付近に、車体左側を下にして転倒停車した。被告車は本件事故および右の転倒によつて、前照灯、ウインカーのガラスが破損し、ステツプ前方に取付けられている合成樹脂製風防のうち車体の左側の部分のうちの上部約二分の一の部分が破損脱落し、車体の右側の部分は、そのほぼ中央部に穴があき、かつひび割れし、右側ハンドルに取付けられているバツクミラーは、その支柱が車体の中央側に約一八〇度近く旋回して、鏡面が車体の前方を向く状態となつた。

6  被告車が転倒停止してから間もなく、本件県道を北進して来たマイクロバスが、被告車の転倒地点の数メートル南方で停車し、その運転手が大声で、被告照正に対して、本件県道上にあつた障害物の除去を要求した。その時、足踏自転車(以下単に「自転車」という。)に乗車して本件県道西側側端近くを北進して来た花房唯雄(以下「花房」という。)は、右のようにマイクロバスが停車し、運転手が大声を出していたので、自転車から下車し、これを右マイクロバスの左側方付近に置いて、被告車の転倒地点の方へ歩いて来たところ、右マイクロバスは発進して行つた。本件土橋西端付近の本件県道上にいた被告照正が、本件土橋の南側の本件側溝内で人のうめき声のような物音がするのを聞き、これを花房に告げたので、折から本件県道を南進して来た貨物自動車を停車させて、その前照灯の照明を利用して本件土橋の南側の本件側溝内を見たところ、久二が頭を北側、足を南側にして倒れていた。そこで、花房が右貨物自動車の運転手と協力して本件側溝内から久二を揚げ、右貨物自動車に乗せ、花房も同乗して、和気町大字和気二七七番地北川病院へ久二を運び、被告照正は本件事故現場に残つた。

7  本件事故当日の午後八時から午後九時三〇分までにわたつて、司法警察員山上鉄生(以下「山上」という。)らによつて、本件事故についての第一回実況見分(以下「第一回実況見分」という。)が行われたが、これより前に、被告照正は被告車を押して自宅へ帰り、さらに自転車で前記北川病院へ行つていたので、右病院から本件事故現場へ戻つて、右実況見分に立会つた。第一回実況見分が行われた時には、本件大八車は本件町道の東側縁線と本件県道の西側縁線との交点付近の本件町道上に、手木を東に向けて置かれていて、その荷台上には、縄で束ねられた約六本位の稲足ほか、その前部右端に鳥打帽子と被告車の合成樹脂製風防の被片が載せられており、本件土橋の北側の本件側溝内に竹竿四本が一端を本件土橋にかけて置かれていて、そのうち二本には根元の方に、約二・七ないし二・九メートルにわたつて車轍痕が付いており、右二本のうちの一本には根元に近い部分にさらに約一・四メートルにわたつて表面をえぐつたような擦過痕が付いていた。

8  前記のようにして北川病院に運ばれた久二は、右肩胛骨、右第五ないし第一一肋骨各骨折、右肺上葉刺創、胸部内出血、右肝臓破裂、頭頂部挫割創等の傷害を受けていて、意識不明で、極めて重篤の状態にあつた。

右の右肩胛骨、右第五ないし第一一肋骨の骨折個所はほぼ一直線状をなしており、右肺上葉刺創、右肝臓破裂はいずれも骨折した肋骨に因るものであり、体表上の傷害としては、数針縫合した頭頂部挫割創の外には、重大なものはなかつた。

右のように認められる。

(イ) 前掲記の甲ロ第一〇号証には、久二は、益原駅前から竹竿を載せた本件大八車の手木の方を手前にして、これを押して本件県道を南進して行つた旨の、前記4の認定に反する趣旨の久二の供述の記載があるが、右供述は昭和四一年一一月一一日に久二が負傷のために重篤の状態にある裡になされたものであることが、右甲ロ号証の記載によつて認められること、および前記4の認定にそう前掲記の甲ロ第一一号証、同第二五号証の各記載に照らすと、右掲記の甲ロ第一〇号証の記載は前記4の認定を覆すに足りない。

(ロ) 前掲記の甲ロ第四六号証には、第一回実況見分の時に、被告車は本件土橋の西方で、本件県道の西側側端の非舗装部分にあつた旨の、前記7の認定に反する趣旨の山上鉄生の供述の記載があるが、前記7の認定にそう前掲記の甲ロ第二〇号証の記載および添付の写真によつて認められる状態(本件事故現場付近を写した写真には、被告車は写つておらず、被告車が写されている写真は、その背後の被写体から、住家の庭先で写されたものと認められる)、甲ロ第五〇号証の記載に照らすと、右掲記の甲ロ第四六号証記載の山上の供述は、記憶違いに因るものと認められるから、前記7の認定を覆すに足りない。

(ハ) 原告戸川恵美子本人の供述のうちには、久二は北川病院へ入院当初、右胸辺りから足の太腿まで真黒にくちていた旨の供述があるが、右供述は、前掲記の甲ロ第六四号証の記載、および同第四四号証の中島洋一の証言の記載に照らして考えると、たやすく信用することはできない。

他に、前記認定を覆すに足りる証拠はない。

(ニ)1 前掲記の甲ロ第二〇号証(司法警察員山上鉄生作成の昭和四一年一一月六日付第一回実況見分調書)には、第一回実況見分に立会つた被告照正が山上に対して、本件事故発生時の状況として、被告照正は被告車を運転して、本件町道入口を探しながら本件県道の東側側端から一メートル位中央寄りの部分を南進して来て、本件土橋の北側縁線の北方約三メートル位の処に達した際に前方を見たところ、竹竿を積んだ本件大八車がほぼ本件農道の延長線上の本件県道上にほぼ東西の方向を向いているのを認めたが、どうすることもできず、被告車が本件大八車のどこに当つたかはわからないけれども、被告車が何かに激しく当つた後、流れるような感じで本件県道西側側端の方へ走行して転倒した旨の指示、説明をした旨の記載がなされている。また、前掲記の甲ロ第一八号証(備前簡易裁判所昭和四二年(ろ)第三一号事件の昭和四二年一二月一五日第三回公判における証人山上鉄生の尋問調書)には、第一回実況見分に立会つた被告照正が山上に対して、本件事故当時、本件大八車は手木を東に向けて、本件県道と直角となるように置いてあり、積荷の竹竿は本件側溝部分へ突き出ていたように思うと説明した旨の山上鉄生の供述の記載がある。

2 他方、

(1) 前掲記の甲ロ第五〇号証(昭和四一年一一月七日付の被告照正の司法警察員山上鉄生に対する供述調書)には、(イ)被告車を運転して本件県道の左端(東側側端)から一メートル位のところを、時速四〇キロメートル位で南進し、本件町道へ入つて家へ帰るつもりであつたので、大体の見当で本件町道との交差点付近であると考え、三秒から五秒位の間本件町道入口を探すため右方を見ていて、視線を進路前方に向けたところ、殆んど同時に、前方三メートル位のところに板のような障害物を認め、危険を感じたがどうすることもできず、右の板のようなものに最初は正面から激しくぶつかり、その後は流れるような感じで、最後は、本件町道と本件県道の交差点の南側の端辺りに左側を下にして横倒れに転倒した、(ロ)本件県道を北進してきた自動車の照明で見たところ、大八車が本件県道の左側(東側)の端近くに手木を南に向けて道路と平行に止つており、大八車を中心に長さ約一〇メートル位の竹が散らばつていた。たしかそのうち二本が道路を塞ぐような落ち方をしており、一本は反対の溝の方に落ちていたように思う、道路に落ちていた竹を片付けていたところ、溝の方で人のうめき声が聞えたような気がした、旨の被告照正の供述の記載

(2) 前掲記の甲ロ第二七号証(備前簡易裁判所昭和四二年(ろ)第三一号事件の昭和四三年一月三一日第四回公判の被告照正の供述調書)には、(イ)本件大八車は本件県道の左端(東側側端)から約一メートル中へ入つた処に前方(南)に向いて停めてあつたと思う、(ロ)本件事故後(転倒後)起き上ると、本件県道に竹が三、四本落ちていたので、それを片付けたが、その時、本件大八車は動いておらず、元のままの状態であつた、(ハ)竹を片付けようとする時、マイクロバスが来て、その運転手が早く片付けてしまえと言つたので、竹を拾つて本件大八車に乗せたが、本件大八車を道路上に置いてはいけないと思い、反対側の本件町道の方へ本件大八車を引張つて行き、そこへ停めておいた、(二)第一回実況見分調書に記載されているとおり指示説明したが、それは事実と違うことを述べたものであり、昭和四二年三月二〇日の実況見分(以下「第三回実況見分」という。)の際には記憶どおり述べたので、間違いはない、旨の被告照正の供述の記載

(3) 真正に作成されたことに争いのない甲ロ第三八号証(岡山地方裁判所昭和四三年(わ)第六四七号事件の昭和四四年八月二五日第三回公判の被告照正の供述調書)には、(イ)第一回実況見分の際に被告照正が行つた本件大八車の位置の指示、説明は、被告車を運転していて本件大八車の位置をはつきり見たわけではなく、大八車(農用車)らしいことは判つたが、時間が六時過ぎて真暗だつたので、まさか仕事をやつているとは思われないから、おそらく細い道(本件農道)から帰つて来たのではないかと思い、警察でもそう言われ、そのように想定したことによるもので、間違いである、(ロ)戸川が第三回実況見分で本件大八車の位置を指示し、それが自分が竹をひつかけた場所と同じであつたし、被告車は本件大八車に当つていないから、本件大八車は本件事故によつては動いていないと思う、(ハ)転倒した起きて見たら、竹が一、二本本件県道を塞ぐように落ちていた、落ちていた竹は二、三本であつたと思う、旨の被告照正の供述の記載

(4) 真正に作成されたことに争いのない甲ロ第四九号証(岡山地方裁判所昭和四三年(わ)第六四七号事件の昭和四四年一〇月一七日第四回公判の被告照正の供述調書)には、(イ)本件事故後竹竿は、一本は本件側溝に、二本は本件県道に、一本は本件大八車上にあつた、(ロ)竹竿を片付けたのは自分で、本件県道上にあつた二本と本件大八車の上にあつた一本を本件側溝内にあつた一本の処へ置いた旨の被告照正の供述の記載

(5) 被告照正本人の、(イ)マイクロバスの運転手から早く竹をどけるよう言われ、竹を拾つて本件大八車に載せたが、本件大八東が本件県道の左側にあつては交通のじやまになると考え、本件町道の入口の方へもつて行つた、(ロ)第一回実況見分の時には、久二の田が本件農道を東方へ行つた処にあることを知つていたし、本件事故の時刻の関係から、久二が田からの帰途であつたのではないかと言つたところ、実況見分調書に右の想定に基く記載がなされていた、(ハ)第三回実況見分の時に、久二が本件大八車を本件県道の方向に平行に置いたと指示したが、自分は第一回実況見分の際の自分の指示した位置を固執する気持もなかつたので、久二に口を合わせておこうと思つて、久二の指示する位置でよいだろうといつた旨の供述

があり、右(1)ないし(4)の被告照正の供述の記載、および(5)の被告照正本人の供述によると、前記(二)の1の第一回実況見分の際に被告照正が山上に指示、説明したとされている、本件大八車の車体の向きが、本件県道と平行な状態(その正確さの程度はともかくとして、一応本件道路の方向と同じ方向を向いているといえるような状態)ではなく、本件県道を横断するような状態(本件県道の方向との正確な角度はともかくとして、一応本件県道の両側端の方向を向いているといえるような状態)で、本件県道上にあつたという状況は、本件事故の前後を通じて、被告照正は実際に見たことはなかつたもので、本件事故発生の時刻から考えて、久二が本件県道の東方にある同人の田圃から本件農道を通つて帰宅の途にあつたのであろう、という被告照正の全くの想像に基づいて述べた状態に過ぎないものであり、実際には、本件事故の前後を通じて本件大八車があつた位置、および車体の向きが本件県道と平行であつたという状態には何も変化はなかつた、というのである。

3 しかしながら、

(1) 前掲記の甲ロ第二四号証、同第五七号証、および証人花房唯雄の証言、ならびに右2の(1)ないし(4)に掲記の甲ロ号各証、および被告照正本人尋問の結果を合わせて考えると、前記(一)の6認定のとおり、本件事故後間もなく本件事故現場へ来合わせた花房は、久二を本件側溝内から揚げた外に、被告照正に対して、本件県道上に落ちていた眼鏡を拾うように指示したことがあるけれども、本件大八車および竹竿は全く動かしていないのであり、本件事故直後における本件大八車、竹竿の位置、状態から、本件大八車については前記(一)の7認定のとおりの第一回実況見分の時における位置、状態となるまでの、竹竿については少なくとも前記(一)の7認定のとおり被告照正が第一回実況見分より前に一旦自宅へ帰るまでの間の、各位置、状態の変動は、全部被告照正によつて行われたものであることが認められ、右認定を妨げるべき証拠はない。右認定事実によると、被告照正は本件事故直後(被告車が転倒した直後)から第一回実況見分の時における位置、状態となるまでの本件大八車の位置、状態については、もはや被告車を運転しておらず、しかもみずからの手で動かしているのであるから、被告車を運転走行しながら見た本件事故発生直前の本件大八車の位置、状態についての認識とは異り、相当明瞭、具体的に認識していたものと容易に推認できる。しかるに、第一回実況見分に立会つた被告照正が、実況見分を行つた司法警察員である山上に対して、右のとおり相当明瞭、具体的に認識していたと推認できる本件事故直後の本件大八車の位置、状態に基く指示、説明は何もしないで、全くの想像に基く指示、説明をしたということは、たやすく首肯できないことであるといわざるを得ない。

(2) 本件事故直後に本件県道を北進して来たマイクロバスが被告車の転倒地点の数メートル南方で停車して、その運転手が被告照正に対して本件県道上にあつた障害物の除去を要求したことは前記(一)の6に認定のとおりである。ところで、もし直接路面上に前記(一)の4認定の程度の太さの竹竿が二ないし三本転つていたとしても、それのみであれば、四輪車であるマイクロバスがこれを轢いて通過することは、これによつて竹竿を損傷するおそれがあることを度外視すれば至極容易であり、マイクロバスの通行自体の障害とはならないと考えられる。しかしながら、直接路面上に竹竿が転つているだけでなく、本件大八車が本件県道を横断するような状態で本件県道上にあり、しかもその荷台に載せられた竹竿の一端が荷台の端からさらに三メートル位出ているという状態になつていたとすると、前記(一)の1認定の本件県道の幅員、同3認定の本件大八車の車長等から考え、本件大八車自体またはその荷台に載せられている竹竿(その先端が接地していたとしても)が障害となつて、マイクロバスが本件県道を通行できない状態が生じ得ることは明らかである。

(3) 前記(一)の3認定の本件大八車の構造、同4認定の本件事故発生前に本件大八車が止められていた位置、状態、および荷台に載せられていた稲足、竹竿の数量、状態、同5認定の被告が走行して来た本件県道の部分、被告車が倒転停車した位置、被告車の破損等の状態、ならびに前掲記の甲ロ第二七号証、同第三八号証、同第四九号証、および被告照正本人尋問の結果を合わせて考えると、被告車の前輪が、本件大八車に載せられその後端が荷台の後方約三メートル位まで出ていた三ないし四本の竹竿の間に進入したが、本件大八車の荷台に衝突するに至るより前に被告車の進路が斜め右方へ変えられ、これにより右竹竿のうち二ないし三本の後端寄りの部分を被告車が上方へ跳ね上げながら被告車の進路の方向へ押したことによつて、右竹竿が本件大八車の荷台右側に装着されていた木枠(側板)の上を越えて本件県道上に落下するに至るまでの間に、右の木枠と荷台左側に装着されていた木枠または荷台に載せられていた稲足の束とに挾まれて挺子の作用をし、本件大八車の後部を右方(西側)へ旋回させるとともに、本件大八車を前進させた(南側へ動かした)と考えるのが合理的である。

前掲記の甲ロ第二七号証、同第三八号証には、被告車は竹竿を跳ね上げて本件県道上に落としたのみで、本件大八車に衝突していないから、本件大八車は本件事故によつては動かされていない旨の被告照正の供述の記載があり、被告照正本人の供述のうちにも同趣旨の供述がある。しかしながら、前記認定のとおりの長さ、太さがあり、しかも一方が接地して他方が上つている状態の竹竿の接地している端に近い部分に、被告車の前輪が斜めに衝突した場合に、右竹竿が即時に本件大八車に装着されていた前記認定のとおりの木枠を跳び越す程前上方に跳ね上げるものとは考え難く、かつ右のように考えることは、被告車に左側に転倒したのみでは生じないと考えられる前記認定のとおりの車体右側の風防の破損、右側ハンドルに装着されているバツクミラーの支柱の旋回等が生じていたこととも符合しないこと、竹竿の後端(接地していた方の端)に近い部分を側方へ押した場合、竹竿の中央の部分が本件大八車の荷台に接していて、しかも固定されていないのであるから、先端の方が反対方向に旋回することは理の当然であること、被告車のハンドルを如何に大きく切つても、直角にまで進路を変えることができるわけではないから、被告車が如何に大きく右へ進路を変えたとてしても、それまでの進行方向、即ち本件県道の方向(南方)へも進むのであり、この被告車の力が竹竿を通じて本件大八車にも作用し、本件大八車を南方へ動かすことになること、さらに本件大八車が二個の車輪で接地していて、かつ路面に固定されていないという本件大八車の構造上からも、その荷台に載せられていた竹竿に被告車による前記のような力が加えられた場合には、本件大八車は一点を中心とした単純な旋回運動をするのではなく、前進と旋回の両運動をすると考えられることに照らすと、前掲記の被告照正の供述内容は不合理であつて、たやすく信用できないものということができる。

4 右3の(1)ないし(3)に述べたところに照らして考えると、前記(二)の1の第一回実況見分において被告照正が行つた本件大八車の位置、状態についての指示、説明は、その正確さの程度はともかくとして、本件事故直後に被告照正が実際に見た本件大八車の位置、状態についての認識を基礎として行われたものと推認するのが相当である。

(三)  前記(一)認定の各事業と前掲記の甲ロ第一一号証、同第二〇号証、同第二二号証、同第三八号証、同第四六号証、同第四九号証、五〇号証、同第五七号証、および証人山上鉄生、同花房唯雄(第一、二回)の各証言、被告照正本人尋問、検証の各結果を合わせて考えると、被告照正は前記(一)の5認定のとおり被告車を運転して本件県道の東側側端から約一メートル位中央寄りの部分を南進していて、前記(一)の4認定のとおり本件県道東側側端近くに止めてあつた本件大八車の荷台後端からさらに約三メートル位後方(北側)へ根元の部分が突出て、路面に接地していた竹竿を、その接地点の直前に至つて発見し、これとの接触を避けようとして急遽被告車のハンドルを右へ切つたが間に合わず、前記(二)の3の(3)のようにして、本件大八車の後部を右方(西側)へ旋回させるとともに本件大八車を前方(南側)へ押出したため、本件大八車の荷台左(東側)側面に体を接するようにして、荷台上に載せてあつた竹竿を持上げようとしていた久二を本件大八車が押し、同人を左後方へ転倒させて本件土橋南側の本件側溝内に転落させ、これによつて、久二に前記(一)の8認定のとおりの傷害を負わせたものと推認するのが相当である。

(四)1  前掲記の甲ロ第二七号証、同第三八号証、同第五〇号証の被告照正の供述の記載、および被告照正本人の供述のうち、本件事故によつて本件大八車は何も動いておらず、車体の向きが本件県道と平行な状態のままであつた旨の部分は、前記(二)の3のとおりたやすく信用できないから右(三)の推認を覆すに足りない。

2  前掲記の甲ロ第二一号証には、本件事故後に花房が、本件大八車が本件土橋の北側の本件県道の東側側端近くに、車体の向きを本件県道の方向と平行な状態として止めてあるのを見た旨の記載があるが、前掲記の甲ロ第二四号証、同第五七号証および証人花房唯雄の証言(第二回)によると、花房は本件事故直後の状態を見たのではなく、被告照正が交通の障害となる物の除去を或る程度行つた後の状態を見たものであることが認められること、および右甲ロ第二一号証に記載されている本件大八車の位置は、前記(一)の4認定の本件事故前に本件大八車が止めてあつた位置と異なることなどに照らして考えると、右甲ロ第二一号証の記載は右(三)の推認を覆すに足りない。

3  前掲記の甲ロ第二七号証、同第三八号証、いずれも真正に作成されたことに争いのない甲ロ第三一号証、同第四七号証、および被告照正本人の供述のうちには、被告車の前照灯の照明によつて、本件大八車の北方約五〇メートル位の処から、被告車の進路前方に障害物のあることがわかり、以降これに対する注視を怠つたことはなく、本件大八車の北方約四〇メートル位の処で右障害物が大八車であることがわかつたが、本件事故発生に至るまで本件大八車の傍に人が居るのは認めなかつた旨の被告照正の供述の記載、供述がある。しかしながら、右の各供述のうち、本件大八車をその北方約五〇メートル位の処で認めてから本件事故発生に至るまでの間、本件大八車に対する注視を怠らなかつた旨の部分は、本件事故を発生させていること自体、および前掲記の甲ロ第二〇号証、同第五〇号証に照らすと到底信用することはできないから、被告照正が本件事故発生に至るまでに久二が本件大八車の傍に居るのに気付かなかつたということは、右(三)の推認を覆すに足りない。

4  前掲記の甲ロ第一一号証、同第二二号証、同第四八号証、および検証の結果によると、右(三)認定の久二が本件事故直前に本件大八車に載せてあつた竹竿を持上げようとしていた処から、本件事故後に久二が倒れていて被告照正、花房に発見された処までは約四・二メートルないし四・八メートル位の距離があることが認められ、かつ、前記(一)の8認定の久二が受けた傷害の内容、程度からすると、久二はその背部右側を硬質の物体に相当強烈に打付けたものと推認されるところ、右(三)の推認による本件大八車の前方(南側)への移動の距離、速度はいずれもそれ程大きなものとはならない(したがつて、本件大八車の運動自体が久二の体に与える衝撃自体はそれ程強大なものとはならない)と考えられるのであるが、前記(一)の2認定の本件側溝の状態からすれば、久二が竹竿を持上げようとしていた処から一挙に跳飛ばされて本件側溝内に落下したのでなくても、前記認定のとおりの傷害を生じ、また前記認定のとおりの距離の処に至ることは充分あり得ると考えられるので、右(三)の推認を妨げるに足りないものと考える。

5  前掲記の甲ロ第一一号証には、突然黒つぽいかたまりが飛込んで来て右胸に当つたまでは覚えているが、その後の記憶はない旨の久二の供述の記載があり、前掲記の甲ロ第二二号証にも第三回実況見分の時に、久二が右と同様の説明をした旨の記載があるが、久二にとつて事故の発生が全く予期しない突発的事実であり、かつ久二は前記(一)の8認定のとおりの重傷を負つたものであり、前掲記の甲ロ第六号証、甲ロ第一一号証、真正に作成されたことに争いのない甲ロ第二六号証によると、久二は負傷後三日間位は意識不明の状態が続いたことが認められることなどからすれば、事故発生の経過についての認識が客観的事実と齟齬し、またはその記憶が当初認識したものと異るものとなるということは充分あり得ることと考えられるから、右(三)の推認を妨げるに足りないものと考える。

他に右(三)の推認を覆すに足りる証拠はない。

(四)  被告らは、久二は本件事故前に他の車両による事故によつて、または久二自身の過ちによつて、本件側溝に転落したものであると主張するが、もし、自動車、原動機付自転車による事故が発生していたとすれば、被告照正が本件事故現場に到達した時には、本件大八車、竹竿の位置、状態の変動が生じており、また事故を起した車両の破損部品が落ちているなど車両事故の痕跡が残つていると考えられるにかかわらず、右のような状況、痕跡があつたことを認めるに足りる証拠はないこと。自転車とすると、その通常の走行速度から考えて、停止していて、しかも荷台の後方約三メートル位まで竹竿が出ていた本件大八車の荷台に直接衝突するまで走行を続けるということはないであろうと考えられ(前照灯を点灯していない場合には、本件大八車の発見が至近距離に至るまで困難である反面、その走行速度もおのずから極めて低速となるものと考えられる)、竹竿に接触しただけであれば、その走行速度、重量等から考えて、本件大八車の車体に作用する運動力は軽微なもので、久二を本件側溝内へ転落させる程のものとはならないであろうと考えられるし、さらに、直接久二の身体に自転車が衝突したとすると、前記認定のような本件大八車が止まつていた位置、久二が行つていた作業の仕方との関係上、舗装部分に比して走行し難いのみでなく、本件土橋より北側の本件側溝にみずから転落する危険のある本件県道側端の非舗装部を走行して来たことになるが、右のような部分を走行するということは通常は行われないと考えられること、久二が前記(三)の5掲記のとおりの供述をしており、また前掲記の甲ロ第二六号証には、本件事故当夜、久二が北川病院で応急手当を受けた直後の無意識状態の時に、「やつちもないことをする者がおる、うちの子ではないか」と言つた旨の原告恵美子の証言の記載があることに照らすと、右の各供述、証言がことさらに虚偽を述べたものであることを窺わせるような証拠が何もない以上、久二が他からの衝撃を受けたことに因るのでなく、自己の過ちで本件側溝に転落したと考えることには合理性がない。右のとおりで、被告らの右主張事実は、単なる抽象的可能性としてはともかく、本件に顕われた証拠に照らして考えると具体的蓋然性のない事実であるから、前記(三)の推認を妨げるに足りない。

(五)  原告らは、被告車が久二の身体、または本件大八車の車体に衝突したと主張するが、前記(一)認定の各事実から考えると、むしろ被告車は久二の身体には衝突していないと認めるのが相当であり、また本件大八車の車体に対しても、被告車の車体左側の合成樹脂性風防が接触したということは考えられるけれども、前輪等車体の躯幹部が衝突したと認めるに足りる証拠はない。

三  被告照正の責任

(一)  前掲記の甲ロ第二七号証、同第三八号証、同第五〇号証、真正に作成されたことに争いのない甲ロ第五八号証、および被告照正、同育雄、同宣枝各本人の供述によると、被告車は、昭和四一年一〇月下旬頃に被告育雄が被告宣枝の兄宮本宣明から受領して(直接宣明から引渡しを受けたか否かの点は除く)来て、被告ら方に保管してあつたものであること、被告照正は、運転免許を受けている友人から原動機付自転車の運転操作方法を教えてもらい、本件事故前日までに数回位被告ら方の庭先、附近の川の堤防上等で被告車の運転練習をしたことがあつたが、夜間運転は本件事故の際が初めてであつたことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。右認定事実によると、本件事故当時、被告照正の原動機付自転車の運転技術は至つて未熟の段階にあつたものと推認される。そして、前記二の(一)認定のとおり本件事故発生地点付近においては、本件県道が幅員五メートルで、数一〇〇メートルの区間にわたつて直線状となつており、本件大八車は本件県道東側側端寄りに止めてあつたものであることからすれば、本件事故は、被告照正が原動機付自転車の運転技術が至つて未熟であつたにもかかわらず、夜間に被告車を運転し、しかも前方注視を怠つた過失に因つて発生したものと認めることができる。

(二)1  前掲記の甲ロ第三一号証には、本件事故当時にはかなりの程度の原動機付自転車の運転技術をもつていたと思う旨の被告照正の供述の記載があるが、前記認定のような本件事故までの被告照正の運転経験量からすれば、被告照正の右供述内容は、全く根拠のない同被告のうぬぼれに過ぎないことが明らかである。

2  前掲記の甲ロ第三一号証、同第三八号証、同第四七号証、および被告照正本人の供述のうちには、約五〇メートル位の距離で本件大八車が路側にあるのを認め(但し、当初はそれが大八車であるということはわからず、単に黒いような物があるということがわかつただけであつた)てからは、これの注視を怠らなかつたが、前照灯が上向き、下向きのいずれであつたか(通常の状態か減光状態か)はわからないが、真直ぐ前方を照射し、路面を余り照射しなかつたので、本件大八車に載せられた竹竿の端が荷台の後方に出て、路面に着く状態になつていたことは、竹竿の接地点の直近かに至るまで発見できなかつた旨の供述の記載、供述があるが、前照灯が上向き(通常の状態)であるということは、下向き(減光の状態)のときになされる比較的近距離の範囲でかつ路面に向つた照射が行われなくなつて、真直ぐ前方に対する照射のみが行われるというのではなく、下向きの状態の照射のほかに真直ぐ前方に対する照射が加わるものであること、すなわち上向きであるからといつて、路面に対する照射が行われなくなるものではないこと、本件大八車に載せられていた竹竿は水平もしくは水平に近い状態になつていたのではなく、北側の端が接地し、南側が高くなるという状態(南進する者からは比較的見え易い状態)になつていたことに照らして考えると、右各供述内容は到底信用できない。

3  前掲記の甲ロ第三一号証、同第四七号証、同第五〇号証、および被告照正本人の供述のうちには、被告車の走行速度についての供述の記載、供述があるが、車両の走行速度を感によつて正確に判断するには相当の経験を要するものであり、しかも夜間における走行速度については昼間におけるよりも一層経験を要するものであることは、経験則上明らかであり、前記認定のような被告照正の本件事故までの僅かな原動機付自転車の運転経験、ことに夜間運転は本件事故当夜が初めてであつたことからすれば、被告車の走行速度についての右各供述内容の具体的数値は、いずれもその正確性について殆んど信用性がないものといわざるを得ず、ただ被告車が原動機付自転車であるということから、少なくとも時速二〇ないし二五キロメートル程度以上の速度で走行していたであろうと推認できるに過ぎない。

(三)  被告照正が昭和二五年二月一一日生で本件事故当時未成年者であつたことは全当事者間に争いがないが、満一六歳であつたのであるから、責任能力を有していたことは明らかである。

四  被告育雄(両事件について)、被告宣枝(昭和四三年(ワ)第六二七号事件について)の責任

(一)  被告育雄が被告照正の父、被告宣枝が被告照正の母であることは全当事者間に争いがなく、弁論の全趣旨によると、被告育雄と被告宣枝は昭和二五年一月二〇日に婚姻した夫婦であることが認められる。

(二)1  真正に作成されたことに争いのない甲ロ第一九号証、前掲記の甲ロ第五八号証、および被告育雄、同宣枝各本人尋問の結果を合わせて考えると、被告車はもと被告宣枝の兄宮本宜明の所有であつたが、昭和四一年春に同人の勤務地が岡山市から新見市に変り、被告車が不要となつたところ、被告育雄は当時既に運転免許を受けており、被告照正が将来運転免許を受けることも予想されるので、被告宣枝が宮本宜明との間で譲受の交渉をし、同年一〇月下旬頃、被告育雄が受領して来て、被告ら方に保管されていたこと、被告宣枝は運転免許を受けていないこと、本件事故当時、被告車の使用についての届出は宮本宜明が使用していた当時のままとなつていたことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。被告育雄本人の供述のうちには、被告車を譲受けることは、被告宣枝が全く独断で決めたことで、被告育雄は関知しておらず、被告育雄が受領して来たのは、同被告が運転免許を受けていたからに過ぎない旨の供述があるが、被告育雄と被告宣枝が夫婦であること、当時、被告宣枝が近い将来運転免許を受けることを予定していたことを窺わせる証拠は何もないことなどに照らして考えると、右供述はたやすく信用できず、被告育雄と被告宣枝が合意のうえで譲受けたものと推認するのが相当であり、また、宮本宜明との間で譲受の交渉をしたのが被告宣枝であつたということから、直ちに同被告の名で被告車の所有権を取得したものと即断することはできない。

してみると、本件事故当時、被告車は被告育雄、被告宣枝の共有に属していたものと推定される。

2  被告育雄本人の供述のうちには、被告照正に対しては、運転免許を受けるまでは被告車を運転しないようたびたび注意し、被告宣枝に対しては、被告車のエンヂンキーを厳重に保管して、被告照正が運転できないようにするよう注意していた旨の供述があり、前掲記の甲ロ第一九号証、同第五八号証、および被告宣枝本人の供述のうちにも、当初被告車のエンヂンキーは玄関の柱に釘で掛けていたが、被告照正が被告車を運転したことを被告照正の弟から聞いたので、その都度注意し、エンヂンキーを冷蔵庫のバターボツクス内に匿した旨の被告宣枝の証言、供述の記載、供述がある。

しかしながら、前記のとおり、被告車が被告ら方へ持つて来られてから本件事故当日までの僅か一〇日余の間に、被告照正が数回位被告車を運転したことが認められること、被告育雄本人の供述のうちに、運転免許を受けていなくても河原や川の堤防で運転練習するのはかまわないと思う旨の供述があること、前掲記の甲ロ第五〇号証には、被告照正の、五、六回家のすぐ横の堤防で運転練習のために被告車に乗つた、練習に出る時には大体は母が家に居るので、母に断つて乗つたが、無断で乗つたこともあつた旨の供述の記載があり、被告照正本人の供述のうちには、堤防は人通りが少ないから運転してもかまわないと思つていた、県道でも夜は往来が少ないから無免許で運転しても違反にならないと思つていた旨の供述があることに照らすと、被告育雄、被告宣枝が被告照正に対して、形式的に言葉のうえだけの禁止をしたことはあつても、真に被告車の無免許運転を行わせないようにするという意思があつたか否か甚だ疑わしいといわなければならない。また、被告照正本人の供述によると、本件事故当日、稲刈をして家に帰り、喉が涸いたので何か飲もうと思つて冷蔵庫内を探していたところ、バターボツクスの隅の方にあつた被告車のエンヂンキーが見付かつた旨の供述があるが、飲物を探そうとしてバターボツクスの隅を探すということは甚だ首肯し難いことであるし、もし、ことさらに探したのではなくて見付かつたというのであれば、被告照正本人の供述によると、同被告は平素自身で冷蔵庫から飲食物を取出すことを行つていたというのであるから、冷蔵庫内に置いたとしても、探さないでも見えるような処へ置くことは、匿したことにはならないものといわなければならないし、前掲記の甲ロ第五〇号証には、本件事故当夜、被告車を堤防で運転することを母に断つて出た旨の被告照正の供述の記載もあることなどに照らして考えると、被告宣枝が被告車のエンヂンキーを冷蔵庫内に匿したということも甚だ疑わしいといわざるを得ない。すなわち、被告育雄、同宣枝は被告照正に対して、被告車を被告ら居宅付近の堤防(道路交通法第二条第一号にいう「一般交通の用に供するその他の場所」に該当し、同法上の道路であると考えられる。)、河原等で運転することも真に禁止していたとは認められないから、よしんば、被告育雄自身は、宮本宜明から受領して来た時以外には被告車を運転したことがなく、また運転するつもりもなかつたとしても、被告育雄、同宣枝は、その共有の被告車を運行の用に供していたということができ、したがつて本件事故について被告車の運行供用者としての責任を負うものといわなければならない。

(三)  右(二)のとおり、被告育雄、同宣枝が被告照正に対して被告車を運転することを真に禁止していたと認められない以上、被告育雄、同宣枝は被告照正の親権者としての監督を怠つたものといわなければならず、この監督義務違反と被告照正が本件県道を被告車を運転走行して本件事故を起したこととの間には、相当因果関係があるから、被告照正は責任能力を有していたけれども、被告育雄、同宣枝も本件事故について不法行為者としての責任を負うものといわなければならない。

被告育雄は、本件事故当時、被告育雄と被告照正が一緒に家で過すのは始んど就寝時間のみという状態であつたから、被告照正の監督、教育はすべて同被告が在学していた瀬戸高等学校に委ね、家庭における同被告の監督、教育は母である被告宣枝が専ら行つていたので、被告育雄は親権者としての監督義務違反の責任を負わない、と主張するが、右主張が失当であつて採用できないものであることは、右主張事実自体から明らかである。

五  本件事故発生についての久二の過失

前記二認定の事実によると、本件事故の発生については、久二にも、夜間、付近に何も照明設備がない本件県道上に、荷台の後約三メートル位まで出た状態の竹竿を載せた本件大八車を止めて置きながら、通行する車両の運転者が本件大八車および竹竿の存在を認識し易いような灯火、その他の装置、標識等を何も付けていなかつた点に過失があつたということができ、右の過失と前記三認定の被告照正の過失を比較衡量すると、本件事故発生の原因としては、久二の過失を二、被告照正の過失を八とみるのが相当であると考える。

六  久二の死亡について

(一)  昭和四二年八月六日、久二が死亡したことは全当事者間に争いがない。

(二)  被告らは、久二が死亡したのは、本件事故による負傷に因るものではなく、医師古城猛彦が昭和四二年八月三日、および同月五日に久二に対して手術を行つたこと、また右の手術上の過失に因るものであると主張するので、右の点について判断する。

1  前掲記の甲ロ第四四号証、同第六四号証、いずれも真正に作成されたことに争いのない甲ロ第三三、三四号証、同第三六号証、いずれもその記載の形式、内容から真正に作成されたと認められる甲ロ第六三号証、同第六五号証、甲イ第一四号証の一一ないし一三を合わせて考えると、次の事実が認められる。

(1) 久二は本件事故による前記二の(一)の8認定のとおりの傷害治療のため、北川病院に本件事故当日から昭和四二年三月二八日まで入院、その間に昭和四一年一一月八日、同月一六日、同月二四日の三回手術を受け、昭和四二年三月二八日に退院してから同年七月三一日まで通院した。右通院の終り頃には、骨折、肺臓の負傷はほぼ治癒していたが、肝臓の負傷は治癒しておらず、右腹部に瘻孔があつて排膿が続いていたので、これに対する治療が主として行われていたが、七月二二日には担当医師から再手術がすすめられた(但し再手術の時期の点を除く。)。

(2) 同年七月二六日、久二は、かつて昭和三五年七月から約二年間北川病院に勤務していた当時に診療を受けたことがあり、赤穂市で古城病院を開設、開業していた外科医師古城猛彦の診察を受けたうえ、同月三一日、右病院に入院した。古城医師は、久二からの北川病院における治療経過、主訴症状等の聴取、右腹部の瘻孔へ造影剤を注入して行つたレントゲン写真撮影等による診察の結果、肝臓破裂に基く二次的混合感染に因つて、肝臓上、横隔膜下に膿瘍、腹壁からほぼ脊柱に達する瘻孔が形成されており、右瘻孔の摘除手術を行う必要があり、右手術は腹部からと背部からの二回に分けて行わなければならないものと診断した。右診断に基いて、同年八月三日午後二時三〇分から午後四時四〇分にわたり、古城医師外一名の医師が久二に対して瘻孔摘除の手術を行い、腹壁から約一二ないし一三センチメートルの部分までの瘻孔を切除したが、その際、肝臓の著しい変色、凝血の付着、繊維性癒着等が認められたが、肝臓からの出血は認められなかつた。右手術後、久二に上腹部の膨満、血圧下降、排尿困難等の症状が発生したので、古城医師は、腹腔内出血、腹膜炎、胸肝癒着等の発生している虞があるものと判断し、同月五日夜、試験開腹手術を行つたところ、肝臓上部、横隔膜下に長さ約一五センチメートル、厚さ約二ないし三センチメートル位の凝血層、肝臓の内側に手拳大の凝血塊があつたほか、腹腔内に相当多量の漿液性の血液があつたが、右の凝血を除去することは、再出血の危険があると判断してそのままとし、漿液性血液のみを吸引排除して閉腹したが、出血が著しく血圧が降下し、輸血、止血剤投与等を行つたけれども、同月六日午前五時三〇分、久二は死亡した。

(3) 久二の死因は、医学上は、肝臓破裂傷による横隔膜下膿瘍と出血である。

右のように認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

2  被告らは、古城医師が久二に対して手術を行つたこと自体が過失に因るものであると主張するが、久二が、前記認定のとおり北川病院を昭和四二年三月二八日に退院してから同年七月三一日まで通院して治療を受けていた間に、病状の悪化を示す特段の症状が発現していなかつたにかかわらず、古城医師の手術を受けてから間もなく死亡するに至つたということのみから、直ちに、古城医師が手術を行つたこと自体に、医師として久二に対する診療を行ううえでの過失があつたものと推断することはできないし、他に、古城医師が手術を行つたこと自体に過失があつたことを認めるに足りる証拠はない。かえつて、前掲記の甲ロ第三六号証、(岡山大学医学部法医学教授三上芳雄作成の嘱託鑑定書)、同第三四号証(岡山地方裁判所昭和四三年(わ)第六七四号事件の第二回公判における証人三上芳雄の尋問調書)によると、久二の肝臓上、横隔腹下に生じていた膿瘍は手術によつて除去しなければならないものであり、放置しておいた場合には、膿汁が漏出して腹膜炎等他の疾病を発生させ、死亡に至らせる危険があるものであつたことが認められること、および前記のとおり北川病院の担当医師も久二に再手術をすすめたことが認められることからすれば、久二に対して膿瘍、瘻孔の摘除手術を行つたこと自体には過失はなかつたものと認められる。また、被告らは、古城医師が久二に対して行つた手術に、施術上の過失があつたと主張するが、前記認定の古城医師が久二に対して行つた二回の手術に、施術上の過失があつたことを認めるに足りる証拠はない。

3  右のとおりで、医師古城猛彦が久二に対して行つた診療について、同医師に過失があつたことが認められず、久二の死亡の原因が、前記のとおりである以上、久二は本件事故による傷害に因つて死亡したものということができる(本件事故と久二の死亡との間には、相当因果関係があるということができる)から、被告らの前記の主張は採用できない。

(三)  しかしながら、前記認定の久二が北川病院に通院して治療を受けていた期間中に、久二の病状の悪化を示す特段の症状が発現していたことを認めるべき証拠がない以上、もし、久二が北川病院から古城病院に転医せず、古城医師の手術を受けることができなかつたならば、少なくとも昭和四二年八月六日に死亡するということはなかつたであろうということは推測するに難くない。のみならず、古城医師に久二に対する診療上の過失がなかつたということが、直ちに久二の本件事故による傷害に因る死亡が、時期の早晩はあつても不可避のものであつたということを意味しないことはいうまでもないことである。

ところで、前掲記の甲ロ第三三号証によると、久二が北川病院から古城病院に転医したのは、全く久二の意思によるものであつたため、北川病院から古城病院に対しては、久二が北川病院に入、通院中に得られた久二に関する医学上の資料は全く提供されなかつたことが認められ、前掲記の甲ロ第四四号証、同第六三ないし第六五号証によると、北川病院で久二に対して行われた昭和四一年一一月八日の手術は、岡山大学医学部から外科医、麻酔医の応援を得て、外科医岡嶋助教授外二名、麻酔医三名によつて、同月一六日の手術は外科医岡嶋助教授外一名、麻酔医一名によつて、同月二四日の手術は外科医岡嶋助教授外一名、麻酔医一名によつて、それぞれ行われ、右の各手術以外の入、通院中の診療についても岡嶋助教授の協力を受けていたことが認められ、前記認定のとおり昭和四二年七月二二日に久二に対して再手術がすすめられたが、右再手術の時期は直ちにというのではなかつたことが窺われ、右の事実からすれば、久二に対する再手術が必要であり、古城病院へ転医しなくても再手術は行われたであろうが、その場合には、手術の時期、方法、および施術者、施設等の選択が、昭和四一年一一月五日以降久二に対して行われた手術、検査等を含む診療によつて得られている久二についての詳細、具体的な医学上の資料に基いてなされるであろうから、右の資料が全くなく、短期間の診察、検査等による資料のみに基いて手術が行われる場合に比して、医学上より適切妥当なものとなるであろうことは容易に推測されるところであり、その場合に久二の死亡を回避し得る可能性があつたことを否定し得ないものと考える。他方、久二が北川病院から古城病院へ転医したことについて、患者として無理からぬ事情があつたことを認めるに足りる証拠はない。

右のような事情からすれば、久二が北川病院から古城病院に転医したことは民法第七二二条第二項にいう「被害者ニ過失アリタルトキ」に当るものと解するのが相当であり、転医当時における北川病院における久二に対する治療の状態等から考えると、古城病院において生じた治療関係費用、および久二の死亡に因る損害については、その二分の一の限度において被告らにその賠償義務を負担させるのが相当であると考える。

七  原告組合の請求について

(一)  久二が原告組合の被保険者であつたことは、当事者間に争いがない。

(二)  真正に作成されたことに争いのない甲イ第一号証、いずれもその形式、内容から真正に作成されたと認められる甲イ第一四号証の一ないし一三、いずれもその記載の形式、内容と証人藤原克英の証言によつて真正に作成されたと認められる甲イ第一五号証の一ないし一〇、および証人藤原克英の証言によると、原告組合はその被保険者である久二が本件事故により負傷したことに因る久二に対する保険給付として、北川病院、古城病院における久二の治療、入院費、および久二が勤務先である同和鉱業株式会社片上鉄道事業所を欠勤したことによる傷病手当として、次のとおりの支払いをしたことが認められる。

1  昭和四一年一一月五日から昭和四二年七月三一日までの間の、北川病院における治療費、入院費として一、二三三、〇二七円。

2  昭和四二年七月二七日から同年八月六日までの間の古城病院における治療、入院費として二二四、九九九円。

3  昭和四一年一二月一〇日から昭和四二年八月六日までの二四〇日間の日額九〇〇円(久二の標準報酬月額四五、〇〇〇円(日額一五〇〇円)の六割の額)の割合による傷病手当金二一六、〇〇〇円。

右認定を覆すに足りる証拠はない。

(三)  前記五のとおり、本件事故の発生については久二にも二割の過失があると認められるので、本件事故による負傷に因る久二の損害のうち、北川病院における治療、入院費、および昭和四二年八月六日までの欠勤によつて失つた収入については、その八割の限度で、前記六のとおり、古城病院における治療、入院費については、その五割の限度で、被告らにその賠償義務を負担させるのが相当であるから、原告組合が右(二)認定の保険給付をしたことに因つて取得する被告らに対する損害賠償債権は、右(二)の1の八割、2の五割、3の全額(傷病手当額が久二の逸失利益の八割以下であるから)の合計一、三一四、九二二円(円未満四捨五入)であることになる。

(四)  してみると、原告組合の被告照正、同育雄に対する請求は、被告ら各自に対して一、三一四、九二二円およびこれに対する本件記録上原告組合の本件訴状が被告らに送達された日の翌日であることが明らかな昭和四三年三月二四日から完済に至るまで、民事法定利率である年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める限度においては理由があるが、右の限度を超える部分は理由がないものといわなければならない。

八  原告戸川らの請求について

(一)  久二が本件事故当時同和鉱業株式会社片上鉄道事業所に勤務していたことは、当事者間に争いがない。

(二)  前掲記の甲ロ第二六号証、その記載の形式、内容から真正に作成されたと認められる甲ロ第四号証、および原告恵美子本人尋問の結果、ならびに弁論の全趣旨を合わせて考えると次の事実が認められる。

1  久二は大正九年五月二五日生(死亡当時満四七歳)で、前記会社に保線員として勤務し、本件事故当時、月額平均四五、五八五円の給与を得ていたほか、右勤務の傍、妻である原告恵美子とともに、母玉代所有名義の田畑合計約四反歩位を耕作して農業を営み、昭和四一年度には右農業によつて一四一、〇〇〇円の所得を得た。

2  久二が死亡した当時の家族は、母玉代および妻である原告恵美子、長男である原告一己(昭和二五年六月一一日生)、二男である原告孝二(昭和二八年二月二〇日生)の四名であつた。

右のように認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

(三)  右(二)の1認定事実と久二の死亡時における残存就労可能年数を一六年、勤務による収入については、右のうち満五五歳までの八年間を前記と同額、その後の八年間はその八割とし、農業所得については、土地の資本としての収益率を二割、久二と原告恵美子の寄与率を久二が四、原告恵美子が六とし、久二自身の必要生活費をその純収入の三分の一として、久二の逸失利益のホフマン式計算法による年五分の割合による中間利息を控除した死亡時における現価を算出すると、別紙計算書のとおり四、一九三、二〇五円となる。

(四)  ところで、久二の死亡による右の損害については、前記六のとおりその二分の一である二、〇九六、六〇三円の限度で被告らに賠償義務を負担させるのが相当である。そうすると、久二の共同相続人である原告恵美子、同一己、同孝二はそれぞれ三分の一の法定相続分に従つて、右の三分の一である六九八、八六八円宛の損害賠償債権を相続により取得したことになる。

(五)  原告らは、久二が取得した慰藉料の各相続分と原告ら固有の慰藉料とを請求するというのであるが、そのいずれか一方のみを請求しても、双方を請求しても、その総額について変化を生じさせることは相当でなく、また原告ら固有の慰藉料額を定めるについても久二についての過失を斟酌すべきものと考える。右の見地に立つて前記認定のとおりの本件事故発生の経過、久二が受けた傷害の程度、内容、および入、通院期間、久二の過失(本件事故の発生、および死亡の結果の発生についての)、ならびに本件弁論に顕われた諸般の事情を合わせて考えると、久二の死亡についての原告らの慰藉料としては(久二が取得して各原告が三分の一宛相続した分と各原告固有の分とを合わせたもの)各一、〇〇〇、〇〇〇円をもつて相当と考える。

(六)  してみると、原告らの被告照正、同育雄、同宣枝に対する請求は、各原告が右(四)、(五)の合計額である一、六九八、八六八円およびこれに対する久二死亡の日である昭和四二年八月六日から完済に至るまで、民事法定利率である年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める限度においては理由があるが、右の限度を超える部分は理由がないものといわなければならない。

結論

以上のとおりであるから、原告組合の被告照正、同育雄に対する請求を前記七の(四)の理由のある限度において認容して、その余を棄却し、原告恵美子、同一己、同孝二の被告照正、同育雄、同宣枝に対する請求を右八の(六)の理由のある限度において認容して、その余を棄却することとし、訴訟費用の負担について民事訴訟法第九二条、第九三条を、仮執行の宣言について同法第一九六条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 寺井忠 竹原俊一 前田博之)

別紙 図面

<省略>

計算書

1 満55歳まで

(1) 勤務による収入と農業所得の年間合計額

45,585円×12+141,000円×(1-0.2)×0.4=592,140円

(2) (1)から生活費を控除した純益

592,140円×(1-1/3)=394,760円

(3) 満55歳までの純益の現価

394,760円×6.5886=2,600,916円(円未満四捨五入)

2 満56歳から満63歳まで

(1) 勤務による収入と農業所得の年間合計額

45,585円×12×0.8+141,000円×(1-0.2)×0.4=482,736円

(2) (1)から生活費を控除した純益

482,736円×(1-1/3)=321,824円

(3) 満56歳から満63歳までの純益の現価

321,824円×(11.5363-6.5886)=1,592,289円

3 逸失利益の合計の現価

2,600,916円+1,592,289円=4,193,205円

以上

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